2003年

ーーー8/5ーーー 花火大会

 
2日、土曜日に、穂高町の花火大会が行なわれた。田舎の町の商工会が主宰するイベントだから、規模は小さい。時間かせぎに間を置いて打ち上げても、30分もすれば終わってしまう。そうと知りつつ、打ち上げ場所の河原のあたりまで、車で出かけた。車を降りて、さらに田んぼの道を歩いて進んだ。近くで見たら、やはり花火は凄かった。

 ヒュルヒュルと音を立てて闇の中を上昇していく火球が、数秒後の盛大な光景を予感させる。ドーンと花火が炸裂した瞬間、地上はパッと明るくなり、それまで気づかなかった大勢の見物客や、その車が照らされる。爆発音は腹の底に響くようだった。

 小さな花火大会でも、それなりに山場は設けられている。漆黒の夜空に、金色の光の筋が放射状に展開し、それが連発でいくつも重なりあって、雨のように地上へ降り注ぐ。この花火は一番凄かった。視界に入り切らない大きさの、それは壮大な蒔絵のようであった。


 ひとしきり派手に打ち上げると、しばらく静かになる。そしてまた、思い出したようにドーンと上がる。そして終りは突然訪れる。いくら待っても、次が上がらない。わずかな期待が、やがてかすかな期待となり、ついに諦めて家路についた。気がついたら、あれだけ居た人々が、誰もいなくなっていた。あたりは何もなかったかのように、静かで
あった。



ーーー8/12ーーー 犬のうんぽ

 
朝起きたら、その日の最初の仕事は犬の散歩である。この散歩の目的は、運動のためというより、トイレを済ませること。それで私は、散歩ではなく「うんぽ」と呼んでいる。

 我が家の犬は、昨年の秋にやってきた。実は迷い犬である。隣町の路上をさまよっているところをある人に発見された。その人は手を尽くして落し主を探したが、半月経っても名乗り出る人はいなかった。そこで新たな飼い主を探すことになり、愛犬家のネットワークを通じて我が家へ来たというわけだ。全身真っ黒なラブラドルである。名前はオルフェと付けた。迷い犬に相応しい名前だと、息子が命名した。真っ黒なのもぴったり。

 私が子供の頃から、家では犬を飼っていた。この犬で7代目である。それだけ長く犬を飼ってきたのに、犬に関する知識は希薄であった。そんな我が家であったが、この犬の一代前の「ブナ」のときに、愛犬家グループと知り合うようになり、いろいろ知識を授かった。訓練の方法も教わった。だから現在の我が家の犬は、ご近所の犬と比べれば、良く言う事を聞くと思う。鎖を放しても、逃げることはない。

 犬の飼い方の基本的なことも、教わった。それまで気にもしていなかったのだが、犬は自分が住んでいるハウスの回りでは、トイレをしたがらないと聞いた。だから、昼間は何回かに分けて、オシッコに連れ出さなければいけない。夜は、8時間くらいならもつので、寝る前にさせたら、翌朝で良いとのこと。ウンチの方は、基本的に一日一回で、オルフェの場合は朝一番でやる。そのために連れ出すのが「うんぽ」である。

 「うんぽ」の際は、必ず処理のための道具を持参する。道端でしてしまった場合は、シャベルですくってバケツに入れる。そして林の中に持って行って捨てる。林の中でした場合は、簡単である。上から土をかけるだけで良い。

 運動の方は、自宅の裏の空き地で、フリスビーやボールを投げて走らせる。この犬はそれが大好きで、何回でも繰り返す。散歩に比べれば、たいそうな運動量になる。冬場は昼間でも良いが、夏は暑いので、陽が沈んだ頃にやってやる。

 昼間の間人が出払ってしまう家庭には、犬を飼う資格は無いと、ある愛犬家は言った。なるほど、トイレだけを考えても、日に数回面倒を見てやる必要がある。ラブラドルなどは、とても人なつっこい犬種なので、人の気配が無くなったら気がおかしくなるかも知れない。犬を飼うというのは、それなりの責任があるのだ。その代わり、良く面倒を見てやれば、人の言葉を理解するかのごとく、しっかりとなついて可愛くなる。人間もそうだが、目をかけてやることが、大切なのであろう。



ーーー8/19ーーー 樹の成長

 
樹は成長が遅い。その感覚は、実際に自分の手で樹を育てて初めて分かる。特に、若木の育つ速度はとても遅い。ちっとも大きくならないと思っていたら、既に枯れていたということもある。

 木を材料にして暮らしているわりには、生きている樹に対する関心は低かった。それではいかんと思ったわけではないが、数年前から樹を植えるようになった。と言っても、植木屋で買って来ることはめったにない。犬の散歩で林の中に入ったとき、手頃なサイズの実生の幼木を掘り出してきて、我が家の庭に移植するのである。犬のウンチを運ぶ小さなバケツに入れて運べる程度の大きさだから、それは小さいものである。しかも、雑木である。庭木として珍重される類いのものではない。

 自分で手に掛けてみると、いろいろな事に気が付いてくる。成長の遅さもその一つだが、他に、樹型の個体差、土質の適不適、剪定による成長の変化、日照や水の役割、降雪の影響など。理屈では知っていても、感覚として新鮮に写るものが少なくない。ほんの小さな樹にも、なかなかのドラマが感じられることもある。

 成長の遅さにスポットを当てれば、これは現代社会のリズムから完全に外れている。パソコンに代表される、現代科学文明の目まぐるしい変化と比べれば、樹の成長は時間が止まったように感じられる。一本の若木を前にして、この樹が目の高さになるのは、二年後か、三年後になるだろうと予測する。そんな時間のスパンである。中学に入った子が、三年後には高校生だというようなタイムスケールとも違う。樹における日々の生活は、人間のそれほど盛り沢山な内容ではない。樹は上へ伸びること以外、ほとんど何の変化もなく、止まったように成長するのである。

 ともあれ、これほど成長が遅いのだから、材木というものは無駄にしてはいけないと思えて来る。なんだか「良い話」の様相を呈してきたが、木工を生業とする者は、樹を育てることを必須科目として取り入れて、損は無いだろう。



ーーー8/26ーーー 楽しく作る

 
以前、知り合いの木工家具作家がこう言った。「木をいじくって家具を作ること自体が楽しいんだ。だから、出来上がった作品は、面白いところを味わいつくしたカスのようなもんだ。噛み終わったガムみたいなものを、お金を出して買ってくれる人がいるんだから、有り難い事だ」。

 世の中には気難しい人もいるから、こういう話は注意して語らねばならない。楽しんだ後のカスなら、高い値段で売ったりしてはダメだなどと言う人も出てくる。とかく日本人は、楽しいことというものは、遊び、道楽の類いであり、仕事というものは辛く厳しいものだという固定観念がある。目の前にある品物の価値を、そのまま見抜くことをせず、どんなに大変なことかとか、どれほど苦労して作られた物かなどの、補足説明によって価値を量ろうとする。そんな判断基準に曝される身としては、「楽しく作りました」などというのは、言いたくても言わない方が良い場合が多い。商品価値を判断する際のマイナス要因とされかねないからである。

 その禁を犯して、この場であえて言わせてもらおう。現在アームチェアを三脚同時に作っている。腕力を駆使して、ゴリゴリ削る作業が多い品物なので、正直なところかなり疲れる。無理をして、筋肉を傷めることもある。しかし、その手作業が、また楽しいのである。疲れるけれど、面白いのである。機械を上手く使うことで、精度良く、能率良く作れる木工もある。そういうのも、別の意味で面白くはあるが、純粋な手作業、肉体的疲労を伴う作業というものは、ストイックな快感を与えてくれるものであり、大袈裟に言えば生きている充実感を与えてくれるほど、楽しく、面白い。

 どんな仕事でも、楽しいことばかりではない。辛いことが有るから、楽しいことが認識されるとも言える。その両者の関係を、どのようにとらえるかが、上手く仕事を続けていくためのヒントとなろう。辛いこと、嫌な事を、無理矢理好きになる必要はないが、他人がどう言おうとも、自分はこれが好きなんだという物を見つけだすことは、大切である。

 人前で大きな声で言うことは控えるとしても、自分の仕事の中に楽しいと感じられる部分が有るのは、幸せなことだと思う。この道に入ってから、私はそう感じるようになった。



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